水墨画家・雪舟について|有名な代表作品とその生涯を紹介します

べべ・ロッカ

こんにちは。

墨絵師すみえしのべべ・ロッカです。

今から600年ほど昔のこと。


日本の水墨画のいしずえを築いたと言われ、画聖がせいと称えられ、後世に語り継がれている
人物をご存知ですか?

雪舟せっしゅう」がその人です。

歴史上の有名人なので、調べれば簡単に、ネットでもその生涯について知ることはできます。

ただ、知れば知るほど興味が湧いてもっと知りたくなるのが、偉人あるあるです。

雪舟とはどんな人物だったのか、どんな絵を描いたのか、その生涯と作品、エピソードを紹介していきたいと思います。

水墨画家・雪舟「年表」

雪舟像

雪舟といえば、水墨画で有名な人・・・ではありますが、600年も昔の人なのではっきりしないこともたくさんあります。

まずはざっくりと雪舟の生涯を年表で見てみましょう。

べべ・ロッカ

この記事では、雪舟に関してはっきりわからない部分は「不明である」と記述しています。

雪舟カンタン年表

雲谷庵

・1420年(0歳) 
 備中赤浜(岡山県総社市)に生まれる

・14X X 年(?歳) 
 宝福寺(岡山県総社市)で修行

・143X 年(11〜?歳)
 相国寺(京都)に入り、周藤に師事
 周文に画を学ぶ

・145X 年(30代)
 周防(山口県)へ移る

・1457年(38歳)
 「雪舟」の二大字を得て、「雪舟等楊」と名乗り始める
 アトリエ「雲谷庵」に住む

・1467年(48歳)
 遣明船で明(中国)へ渡り、本場の画を学ぶ

・1469年(50歳)
 日本へ帰国
 豊後(大分県)でアトリエ「天開図画楼てんがいとがろう
 を営む

・1479年(60歳)
 諸国をめぐる旅が始まる
 周防(山口)〜美濃(岐阜)〜駿河(静岡)

・1486年(67歳)
 周防(山口)で雲谷庵に再び住む
 国宝作品を描く

・150X 年(8?歳)
 没
 石見(島根)か周防(山口)かは不明

雪舟という名について

柱にくくりつけられた雪舟とネズミ像

「雪舟」という名前は、後からつけられた「雅号がごう」と言われるものです。

雪舟の「いみな」は等楊とうようといい、京都の相国寺でその名を与えられました。

出家前の姓は不明とされています。

また雪舟は禅僧であり、禅僧の名前は4文字とされるので、
禅僧としてのフルネームが雪舟等楊せっしゅうとうよう
画家として一般に知られているのが雪舟せっしゅう
ということで、私は解釈しました。

雅号とは?

雅号がごうとは、画家や芸術家などが持つ、本名以外の活動ネーム。
雅号がごうにはいろいろなパターンがありますが、基本的に自由につけて構いません。

諱とは?

いみなとは、出家後に与えられる、僧侶としての実名になるもの。

クロネコ

昔の人っていろんな名前を持ってたのね。

水墨画家・雪舟「岡山編」

のちに琳派りんぱのスター画家たちの憧れの存在となり、多大な影響を与えた雪舟。

時代ごとに分けて、その足跡を追っていきましょう!

雪舟、禅僧になる!

雪舟等楊は、1420年に備中赤浜(現在の岡山県総社市そうじゃし)に生まれました。

幼い頃(年は不明)に出家し、総社市の臨済宗東福寺派りんざいしゅうとうふくじはの禅寺宝福寺ほうふくじに入ります。

有名な、「涙で描いたネズミの伝説」が生まれたのが、この宝福寺での修行時代のことです。

偉ギィ

雪舟はお坊さんだったのですね!

涙で描いたネズミの話

ー今の岡山県総社市(おかやまけんそうじゃし)の宝福(ほうふく)寺という禅宗(ぜんしゅう)のお寺が舞台です。

禅僧になるため、幼くしてこの寺に入った少年(のちの雪舟)は、禅の修行はそっちのけで、好きな絵ばかり描いて日々を過ごしていました。

それに腹を立てた住職(じゅうしょく)は、ある朝、少年を本堂の柱に縛(しば)りつけてしまうのですが、少し可哀想(かわいそう)に思い、夕方になって、本堂を覗(のぞ)いてみることにしました。

すると、少年の足もとで一匹の大きな鼠(ねずみ)が動き回っているではありませんか。
少年が噛(か)まれては大変と思い、住職はそれを追い払おうとしましたが、不思議(ふしぎ)なことに鼠はいっこうに動く気配(けはい)がありません。

それもそのはず、その鼠は生きた鼠ではなく、少年がこぼした涙を足の親指につけ、床に描いたものだったのです。

はじめ動いたようにみえたのは、鼠の姿がまるで本物のように生き生きととらえられていたからにほかなりません。

それ以後、住職は少年が絵を描くのをいましめることはけっしてありませんでした。

この話は、江戸(えど)時代の初め頃、狩野永納(かのうえいのう:1631~97)という画家が著(あら)わした『本朝画史(ほんちょうがし)』(日本の画家のプロフィールなどを記(しる)したもの)という本に初めて登場するものです。
「京都国立博物館」博物館ディクショナリーより引用)

雪舟、上京する

それから、はっきりした年代は不明ですが雪舟は郷里を離れ、京都に上ります。

上京してすぐに相国寺に入ったのではなく、まずは宝福寺の本山である東福寺とうふくじ
入ったのではないかという説もあります。

そのように考えられる理由として、吉山明兆きっさんみんちょうの存在があります。

吉山明兆とは?

吉山明兆きっさんみんちょう(1352年ー1431年)

東福寺の禅僧であり寺院お抱えの画僧でもあった明兆は、ダイナミックな仏画を制作する実力派でした。

年代としては、明兆は雪舟が11歳の頃に亡くなっているので、会ったことはないはず。

ですが、雪舟の慧可断臂図えかだんぴず(国宝)という作品は、当時、東福寺にあった明兆の有名な達磨蝦蟇鉄拐図だるまがまてっかいずの影響を受けて描いたのではないかと言われています。

雪舟「慧可断臂図えかだんぴず」国宝
明兆「達磨だるま蝦蟇鉄拐図がまてっかいず」重要文化財

しかし雪舟は、自分の画歴については、明兆の名は出していません。

あくまでも絵の師匠は、周文しゅうぶん(将軍家お抱え絵師であった相国寺時代の絵の師匠↓後ほど登場します)であり、如拙じょせつ(同じく室町時代の画壇におけるビッグネーム↓後ほど登場します)であると語っていたそうです。

このことから、雪舟の気持ちの中に「京都のエリート画家たちに学んだ!」という自負があったのでは、と推測されています。

ちなみに、明兆は、当時著名だった周文しゅうぶん如拙じょせつの先輩でもあり、彼らに影響を与えたとも言われています。

明兆は雪舟にとっても重要人物の1人だと思えたので、ピックアップしてみました。

雪舟も少年時代に入った“禅寺”

子供の頃に禅寺ぜんじに入ると、仏の教えのみならず、教養として書や絵や詩や歌などあらゆる芸術も学び、身につけることができました。
また禅寺は、室町時代、武士や公家、文化人などが交流する場でもありました。
芸術・文化サロン的なイメージですね。

ZENという言葉は、今や外国の方にとっては日本の代名詞や、憧れのライフスタイルを表現するかのようにも使われていますが、仏教の中のひとつの流派のようなものと考えて良いと思います。

「外見をシンプルに、内面を磨く」というのが、禅の基本的な思想。

禅は、Appleの創業者スティーブ・ジョブズにも多大な影響を与えたことでも有名です。
若かりし頃のスティーブ・ジョブズは禅にハマり、究極のミニマリズムに生きました。

そのおかげで、華美なものを削ぎ落とした革命的なデザインであるMac、iphoneなどがこの世に生まれたのです。

シンプルなこと・簡素なことが根底となっている禅の教えは、雪舟の生きた室町時代にマッチしました。

水墨画・茶・花 など芸術のみならず、建築・庭園・ファッション・食から武士道に至るまで、あらゆる分野に影響を与え、洗練させて昇華させ、今日まで続く日本人特有の美意識のベースとなったのです。

水墨画家・雪舟「京都編」

雪舟は、ふるさとの岡山を出た後、京都の臨済宗相国寺りんざいしゅうしょうこくじはの大本山相国寺しょうこくじに入山します。

相国寺は京都五山の第二位という名刹めいさつ(有名で由緒ある寺)であり、ここで修行するということはとても名誉なことでした。

雪舟は相国寺で禅僧として、また画家として2人の師匠について修行に励むことになります。

クロネコ

岡山から京都まで上京したんだね!

べべ・ロッカ

出世するために京都を目指したのでしょうね

「相国寺」2大師匠との出会い

まず1人めが、春林周藤しゅうりんしゅうとう

当時京都五山の僧としてトップの地位に出世した名僧である、春林周藤しゅうりんしゅうとうのもとで、の修行をしました。

伝 周文「山水図」一部

そしてもう1人が、天章周文てんしょうしゅうぶん

天章周文てんしょうしゅうぶんは、お寺の住持じゅうじ(=住職)を補佐する都寺つうすというリーダー的役職を務め、画業の方では足利将軍家のお抱え絵師として活躍するエリート画家でした。

周文からは、を学びました。

つまり、雪舟は最高の師匠たちのもとで学べる環境にいたというわけです。

そして雪舟は、自分の絵の師匠は周文と、もう1人が如拙じょせつであるとしています。

如拙「瓢鮎図(ひょうねんず)」国宝(京都・退蔵院所蔵)

・制作年:不明1384〜1429年(応永年間)
・サイズ:縦111.5cm×横75.8cm
・素材:紙本墨画淡彩
・所蔵:京都府「妙心寺 退蔵院」(京都博物館寄託)
・描いた時の如拙の年齢:不明

もう1人の憧れの師、如拙

如拙じょせつは室町時代の画僧で、生没年は不明。

周文の師であったと言われる如拙こそが、実際には日本における水墨画の祖とされています。(雪舟ではないのですね)

如拙じょせつは、室町幕府の足利義持の命で、のちに国宝となる瓢鮎図ひょうねんずを描きました。

上の「瓢鮎図ひょうねんず」には、「如何いかにして瓢箪ひょうたんでナマズをとらえるか?」という禅問答の意味が込められており、それに対する31名もの禅僧の賛(問いの答え)が入った面白い作品(国宝)なので紹介します。(上図)

相国寺での雪舟の役職と名前

相国寺時代に与えられた禅僧の名前は「拙宗等楊せっしゅうとうよう」といいます。

また、禅僧としての雪舟の役職は「知客しか」と呼ばれるもので、いわゆる禅寺での接待係であり、決して高位とは言えない立場でした。

べべ・ロッカ

僧侶の間では「等楊」の名前の一部を取って「楊知客ようしか」と呼ばれていたそうです。

雪舟、画の道を探して周防へ

哲学の道

京の都、エリートの象徴であり、先輩には如拙、周文といった優れた画家も学んだ相国寺で修行をしていた青年時代の雪舟。

ただ雪舟は不満も感じていました。

その理由は、画風のマンネリ化です。

師の周文は、京都画壇の中心にいて将軍の御用絵師

伝 周文「山水図」一部

当時の流行となっていた周文派の画風は、中国の絵を真似ることによって形式化されたものでした。

偉い人の好む垢抜けた繊細な画風と、模倣にすぎない風潮が雪舟には耐えられなかったのです。

偉ギィ

自分が描きたいものと、世間が求めているものとのギャップですね。

クロネコ

いつの時代もアーティストはそのギャップに苦しむのよ〜

そして雪舟は、京都を離れ周防(山口県)へ向かうのです。

雪舟の“交友関係”

画家である前に禅僧であった雪舟には、当然ながら禅僧仲間がたくさんいました。

雪舟の絵に多くの僧の賛(言葉や詩など)が書き記されていることから、それは明らかです。
相国寺に集まる文化人・芸術家などとも交流があったことでしょう。

室町時代は、芸術文化の栄えた時代です。

『洛中洛外圖上杉本陶版』に描かれた「花の御所」(Wikipediaより引用)

多くの芸術家仲間から様々な情報を得た雪舟は、マンネリ化していた京都画壇にうんざりしていたこともあって、友人たちのツテで、周防へ向かうことに決めたのではないでしょうか。

周防は、大内氏という守護大名の地元で、彼も芸術に興味・理解が深い人でした。
戦から多くのアーティストたちを保護したと言われます。

水墨画家・雪舟「山口編」

「拙宗」→→→「雪舟」へ!

相国寺時代には拙宗せっしゅうと名乗っていましたが、38歳の時、周防(山口県)で、「雪舟」と改号しました。

どちらも「せっしゅう」と同じ読み方をしますね。

改号のきっかけは、中国元時代の高僧「礎石梵琦そせきぼんき」が書いた「雪舟」という二大文字を手に入れたことでした。

さらに、周防を訪れていた「龍崗真圭りゅうこうしんけい」という禅僧に依頼して字説(字の意義を説明した文章)を記してもらったのです。

クロネコ

漢字が多いわ〜〜

べべ・ロッカ

ルビをふってるのでよろしく!

雲谷庵

雲谷庵

1456年当時の大内家の当主は、13代目大内教弘おおうちのりひろ氏。

大内教弘おおうちのりひろ氏に招かれて山口へ移った雪舟は、大内氏の庇護のもと雲谷庵うんこくあんというアトリエを構えることができました。

のちに雪舟は、中国へ渡り帰国してからも、またこの雲谷庵うんこくあんを拠点にして諸国を巡り
精力的に画を描き続けることになります。

周防で渡明のチャンスを待つ

当時の周防(山口県)は、雪舟にとって2つの大きなメリットと魅力のある場所でした。

メリットと魅力の1つ目はその立地の良さ。

山口は、中国や朝鮮と非常に近い距離にあるため、日朝・日明貿易が非常に盛んで、輸入品として日本にやってくる中国の絵画をたくさん目にすることができました。

中国からやってきた絵画をただ真似するだけの京都画壇のやり方と違い、周防では、その絵をもとに新しい画法を考え、研究するにはもってこいの場所だったのです。

雪舟は、中国に一番近い場所にいて、本場の絵に触れることで画法を磨きつつ中国へ渡る機会を待っていたに違いありません。

なにしろ当時の日本は、中国から文化・芸術・経済・政治などさまざまな影響を受けていました。

明治以降、洋画家がこぞってパリに留学したように、室町時代の禅僧にとってはこの時代の中国は絶対行きたい憧れの土地だったのです。

偉ギィ

雪舟は明へ行くために山口へ移ったのですね

大内氏

瑠璃光寺(山口県)大内弘世像

メリットと魅力2つ目は、なんといっても領主の大内氏の存在。

大内氏は素晴らしい経済力を持つ権力者であり、また芸術・文化にとても理解のある人物でした。

雪舟を手厚く迎え入れたり、他の芸術家たちを戦火から保護したのです。

歴代の大内氏の活躍で、山口は「小京都」と呼ばれるみやびで華やかな文化的町へと発展しました。

山口県萩市


この権力者に守られたおかげで、雪舟は乱世にもかかわらず生活の心配をすることなく、好きなだけ絵画を学び研究・創作することができたのです。

歴史的に名を残す芸術家はたくさんいますが、彼らがみな幸せな創作活動を行えていたわけではありません。

そう考えると、雪舟の置かれた環境は恵まれていたものだったのかもしれませんね。

クロネコ

アーティストには理解あるお金持ちのパトロンは大事だよね!

水墨画家・雪舟「明国編」

雪舟に、とうとう渡明のチャンスが訪れました。

足利義政の「第2回遣明使派遣」の時がやって来たのです。

遣明船は3隻。

1号船(公方船)
2号船(細川船)
3号船(大内船)

当時の幕府は財政難で、地方の力を持った守護大名たち(大内氏や細川氏)が船を持ち、貿易をおこなっていました。

そのため、こんなふうに幕府以外の大名が仕切る船も、明へ向かう権利を得ていたのです。

遣明船でついに明国へ!

さて3隻のうち、雪舟が乗り込んだのは大内船(3号船)でした。

雪舟の乗った大内船には、禅僧「桂庵玄樹けいあんげんじゅ」が士官という立場で乗っていて、雪舟はその補佐役として任命されたようです。

また絵画や美術品などを明で購入するために、目利きができる人物が必要ですよね。

その役目も与えられていたし、さらに、画家でもある雪舟には、中国の風景、人々などを絵に描いて記録する任務もありました。

クロネコ

雪舟はけっこう重要な仕事を任されてたんだね

偉ギィ

お世話になっている大内氏の
ためにもしっかり仕事をして
恩返しをする機会だったのですね

天童第一座

船のトラブルなどもあり、3隻のうち最初に明の「寧波ニンポー」に到着したのは、雪舟の乗った大内船でした。

公方船と細川船を待つ間に、雪舟は、天童寺で「天童第一座」の称号を与えられます。

「天童第一座」

この出来事は、雪舟にとってはとても名誉なことでした。
形式上のことであったとはいえ、日本で「禅僧」としては出世できなかった雪舟にとっては、とても意味のある肩書きであったようです。

そのため、これ以降晩年の作品には、「四明天童第一座」と書き記されるようになります。

明国での画業

遅れていた2隻の船と合流して、雪舟たちは北京へと向かい、正史の禅僧「天与清啓てんよせいけい」らと共に朝貢ちょうこうの儀式などを済ませて無事、遣明使の役目を果たしました。

その後北京には1年ほど滞在したようです。

北京では、礼部院(役所のようなもの)中堂の壁に画を描いたとされています。

当時の中国では「浙派せっぱ」という画の様式が流行していました。
雪舟が学ぼうと思っていた宋・元代のスタイルは、もう古いものとされていたのです。

絵画のスタイルがどんどん変化していく時代で、革新的な中国の新しい画と、保守的な日本人の画との間には大きな隔たりがあったみたいですね。

雪舟もがっかりしたようですが、気持ちを切り替えて貪欲に中国の絵を学び、吸収していきます。

べべ・ロッカ

雪舟のこういうところが好きですね

クロネコ

京都時代からどんどん進化していってるよね

そうして学んでいく中で、今の主流であるワイルドなタッチの山水画のスタイルが雪舟にマッチしたのでしょう。

中国での学びでは、模倣から始まり自分らしい表現を加え、のちに雪舟様式とも言える独自の画風に昇華させていくことになります。

記録のためのスケッチに熱心

模本「唐土勝景図巻」一部(京都国立博物館データベースより引用)

寧波ニンポーから北京への運河を渡る時に、鎮江・蘇州の風景を入念にスケッチしました。

唐土勝景図巻とうどしょうけいずかん(28cm×735cm)では、それを生かした大自然が描かれていますが、この図巻の原本はなく、京都国立博物館に弟子によって模写されたものが残っています。

「唐土勝景図巻」

「国々人物図巻(色んな人物や動物を記録)

『金山寺・育王山図』(有名な中国の寺院)

など。

雪舟『金山寺・育王寺図』出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム



これらは、日本に帰った時に報告するための記録がわりにもなるものでした。

同行していた禅僧「呆夫良心ほうふりょうしん」によると、名勝とされる山や川などの自然、都会の
建造物、明を訪れた様々な国々の人たちの服装、また珍品の数々に至るまで、あらゆるものをスケッチしていたそうです。

クロネコ

仕事だけどメチャ楽しんでそうだな〜

当時は写真がありませんから、中国がどんなところなのか、どんな人々がどんな生活をしているのか、日本の人々に伝えるために熱心に絵に描いたのです。

今はコピーやデータで簡単に複写できるところ、昔は絵でも書物でも原本を別の人が手で書き写し、またそれを写し・・という作業を繰り返し行う必要がありました。

なので、雪舟の原本が失われてもその模写が残っていたりするのですね。

偉ギィ

すべて書き写す・・・
大変だったでしょうね!

べべ・ロッカ

記録のためだけではなく、雪舟にとって、初めて目にするもの全てが新鮮だったと思います!

水墨画家・雪舟「九州編」

足かけ3年の滞在を経て、雪舟たちは日本に帰ってきます。

大内氏の船のっとり事件!

渡明の船は3隻。
そのうち1隻は幕府の公方船。
1隻は細川船。

残る1隻の大内船に雪舟は乗っていたのですが・・

政治的背景でいうと、この時期、応仁・文明の乱に突入しており、大内氏は西軍、細川氏は東軍、と敵対して争っていました。

明からの航路としては、瀬戸内海を通るのが通常でしたが、細川船が瀬戸内海を通るということは、敵のテリトリー(大内氏の勢力下)ど真ん中に突っ込むようなもの。

そこで、細川氏は大きく迂回して、四国の南側から細川勢力の元にあった、大阪の堺へと向かったのです。

一方、公方船も迂回したかというと、足利義政は財政難のために、船の経営を大内氏に任せていたのです。

なので、公方船には、大内氏側の家来・家臣・禅僧たちがたくさん乗り込んでいたのですね。

で、大内船と共に、やむを得ず公方船も大内氏の領国である赤間関あかまがせき(下関)に寄港し、その上、明で手に入れた数々の唐物(美術品や工芸品など)を奪われてしまったのです!

いくら権力・財力があって芸術を愛する大内氏と言えども、幕府相手になんてことを・・・と思ってしまいますが、まさにやるかやられるかの戦乱の世の恐ろしさを感じる事件です。

戦乱の日本

1469年(文明元年)。

雪舟が帰国した時の日本は、応仁・文明の乱のまっただ中でした。
雪舟は戦乱を避けて、九州豊後ぶんご:大分県)に滞在しただろうと言われています。

中国で雪舟が会得したのは画の技術だけではありませんでした。

広大な大自然に触れスケッチすることで、観察の目心も鍛えました。

学べるものは全て学ぶ、という情熱で挑んだ明国への旅。

帰国した時は50歳でしたが、十分なインプットを終えた雪舟が本格的に活躍するのは、帰国後のことでした。

天開図画楼

豊後(大分県)に滞在中、雪舟は天開図画楼てんがいとがいろうというアトリエに住みました。

雪舟と一緒に明を訪れていた友人の禅僧「呆夫良心ほうふりょうしん」の書いた天開図画楼記てんがいとがいろうきによると、

「上は公候貴介下は浮屠(僧侶)工商の徒にいたるまで、数点の残墨を求めむと欲して、来住すること踵々たり」(原漢文)

と記述されるほどすごい人気だったようです。

文化人や身分の高い人、僧侶、商人や職人に至るまで、たくさんの人がこのアトリエに集まってきたみたいですね。

雪舟に絵を依頼したり教えを学びに来たり、何しろ明から帰国したばかりの雪舟は、最先端の情報や絵画やその技術を身につけている人

多くの人からチヤホヤされた図を想像してしまいますね。

そしてそれに応えるようにドンドンと作品を作っていきました。

それにしても、にぎやかすぎるアトリエでは落ち着いて絵を描くことは難しそうですね。

クロネコ

雪舟、超売れっ子になったんだね

九州時代に描いた作品

狩野常信 模『鎮田滝図』(京都国立博物館 所蔵)

雪舟の描いた原本は震災で焼失。

・サイズ:縦39.8cm×横87.6cm
・素材:絹本墨画
・所蔵:京都府「京都国立博物館」

沈堕の滝
大分県豊後大野市野町矢田

鎮田滝図ちんだのたきずは、雪舟が実際に実景を元に描いたものです。

沈堕(ちんだ)の滝

アトリエ「天開図画楼てんがいとがいろう」から30kmほどの場所にあったこの滝は、当時から名所であったようですね。

残念ながら原本は残っていないのですが、模写の作品が狩野派の狩野常信によって描かれています。

弟子の育成に励む

豊後滞在中は、画業のかたわら、弟子の僧侶たちの育成にも励みました。

倣高克恭山水図巻ほうこうこくきょうさんすいずかん

この図巻は、中国元時代に人気の「高克恭こうこくきょう」という画家の絵を雪舟が模倣して描き、手本として弟子の雲峰等悦うんぽうとうえつに与えたものです。

この図巻は、横に長い作品なのですが(上のリンクから見られます)のちに細川忠と木下俊長という2人の大名が真ん中で2つに分けて、掛け軸にしてしまったということです。

しかしながら、
絵を真っ二つ?
横に長い掛け軸??

不思議なエピソードを持つ絵ですよね。

倣〜とは?

ほう◯◯○■■■」

雪舟の作品には、いくつかこの種のタイトルの絵があります。

倣夏珪山水図ほうかけいさんすいず

倣李唐牧牛図ほうりとうぼくぎゅうず

倣玉澗山水図ほうぎょくかんさんすいず

倣梁楷黄初平図ほうりょうかいこうしょへいず

など・・・

雪舟発見!展(2017年)のポスターより『倣夏珪山水図ほうかけいさんすいず


この「倣」には、「模倣もほう」に使われているように、「似せる」「真似る」という意味があります。

◯◯◯には、画家の名前、■■■にはその画家の絵のタイトル、という配置になるのです。

ですから上の『倣高克恭山水図巻』というタイトルでは、
「高克恭の画風っぽい山水の図巻」という意味が込められているのですね。

現代ではちょっと考えられないことです。

そんな、他の画家に似せた絵って堂々とタイトルに書いて絵にしてもいいの?
オマージュってこと?と思いますよね。

偉ギィ

YouTubeの「切り抜き動画」的なものでしょうか?

クロネコ

人気だからこそ真似されるんだよね?

べべ・ロッカ

悪質なコピーではなくて、宣伝効果とか、双方にメリットがあるスタイルなら良いと思いますけどね(切り抜き動画みたいに)

かつて中国では、基本的に大先輩である過去の素晴らしい画家に倣って描く、ということは当たり前のことでした。

むしろ、ブランド化された偉大な画家のスタイルで描ける、ということは自分の画力のアピールにもなることだったようですね。

ただ、雪舟は画家のスタイルをそのまま真似て描いた訳ではなく、○○風だけど、自分はこんな感じでアレンジができる、と絵に新しいオリジナリティを出していきました。

そうやって雪舟独自の個性が生まれていったのです。

水墨画家・雪舟「諸国遍歴編」

豊後で画業に励んでいた雪舟ですが、山口へ一度戻ります。

九州を去った理由は、戦の波が豊後へも及んできたこと。

彼のアトリエへ人が押し寄せてくるため、創作活動がゆっくりできなくなったこと。

そして、何より雪舟は禅僧でもありました。


ライフワークとなった山水画を描くため、大自然と触れ合うため、旅することを選んだのかもしれません。

諸国を巡りながら、精力的に絵を描きます。

雪舟、60歳。

これ以降さらに、国宝6点を含むパワフルな創作活動が始まるのです。

益田氏の肖像画を描く

『益田兼堯像』(益田市立雪舟の郷記念館)

・制作年:1479年(文明11年)
・サイズ:縦82.8cm×横40.9cm
・素材:紙本着色
・所蔵:島根県「益田市立雪舟の郷記念館」
・描いた時の雪舟の年齢:59歳
・賛者:竹心周鼎ちくしんしゅうてい

益田兼堯(ますだかねたか)氏とは?

石見(島根県)益田城15代当主。
大内氏(お隣の山口県)とは親密な間柄で、その関係で雪舟とも親交がありました。
雪舟が描いた肖像画「益田兼堯像」は、重要文化財に指定されています。

雪舟といえば「ワイルドな山水画」のイメージですが、こんな繊細な肖像画も描けたとは!

この肖像画の存在によってこの頃、雪舟が島根県の益田市にいたことがわかります。

雪舟、庭園も作る!

140720 Jouei-ji Yamaguchi Yamaguchi pref Japan05s3.jpg
663highland, CC 表示 2.5, リンクによる(常栄寺雪舟庭)

雪舟は、中国の明から日本へ戻った後、旅をしながら日本各地に庭園を作っています。

その中でも雪舟4大庭園と呼ばれるものを紹介します。

常栄寺雪舟庭

常栄寺雪舟庭じょうえいじせっしゅうてい
【場所】山口県山口市宮野下2001-1

大内政弘おおうちまさひろが別邸として建設。作庭を雪舟に依頼した。
国より史跡ならびに名勝として文化財指定

旧亀石坊庭園

英彦山 修験道

旧亀石坊庭園きゅうかめいしぼうていえん
【場所】福岡県田川郡添田町英彦山

福岡県と大分県とにまたがる「英彦山ひこさん」の福岡県側にある場所。
中国から帰国後、亀石坊に滞在し、作庭したと言われる。
※坊(お坊さんの坊)とは、僧侶が宿泊する場所。
国より名勝として文化財指定

萬福寺

萬福寺まんぷくじ
【場所】島根県益田市東町25-33

益田兼堯ますだかねたかが、益田家の菩提寺であった萬福寺に雪舟を招いて作庭を依頼。
国より史跡ならびに名勝として文化財指定

医光寺

医光寺いこうじ
【場所】島根県益田市染羽町4-29

当時「崇観寺すうかんじ」だったこの寺に、
雪舟が第5代目住職として招かれたときに作庭。
国より史跡ならびに名勝として文化財指定。

(↑萬福寺は歩いてすぐだそうです)

クロネコ

絵を描くだけじゃなくって立派な庭園まで作っちゃうなんて、すごいな〜

べべ・ロッカ

そもそもデザインセンスに優れた方だったのかもしれませんね

東への旅

雪舟は豊後(大分県)を出たあと東の方へ、旅をしながら絵を描いたと言われています。

万里集九像(ばんりしゅうくぞう)

・1481年 美濃(岐阜県)にいた説

もと禅僧で、美濃で還俗げんぞく(普通の人に戻ること)した「萬里集九ばんりしゅうくの詩文集「梅花無尽蔵ばいかむじんぞう」に雪舟のことが書かれています。

雪舟がかつて明国で見た「金山寺図」を萬里のために描いたこと。
また「山水図」を描いたことなど。

クロネコ

絵の修行もすごいけど、雪舟はお坊さんの心もずっと持っていたんだね

・148X 年 駿河(静岡県)にいた説

富士三保清見寺図ふじみほせいけんじず」(模本)が残されています。

この絵には、富士山・三保の松原・清見寺がバランスよく描かれているため、お手本として多く模本が作られたそうです。

最後は、いよいよ雪舟の晩年編。
国宝6点を紹介します。

水墨画家・雪舟 晩年編「国宝6点」

雪舟の水墨画作品のうち、次の6点が国宝認定されています。

描かれた年が不明のものもありますが、わかっているものを若い順から並べました。

雪舟は、最後には周防(山口)のアトリエへ戻ったとも言われていますが、いつどこで亡くなったのか、その最期はわからないとされています。

しかし、確かなことはこの国宝6点が全て60歳を超えてから描かれたものだ、ということ。

雪舟の、画業に対する研究と学びの成果が、晩年に花開いたということなのかもしれません。

雪舟「国宝作品」

四季山水図巻しきさんすいずかん山水長巻さんすいちょうかん

山水図さんすいず破墨山水図はぼくさんすいず

慧可断臂図えかだんぴず

天橋立図あまのはしだてず

秋冬山水図しゅうとうさんすいず

山水図さんすいず

雪舟の国宝6点については、こちらの記事で詳しく解説しています。↓

雪舟・国宝ー①四季山水図巻(山水長巻)

『四季山水図巻(山水長巻)』部分図(毛利博物館)

・制作年:1486年(文明18年)
・サイズ:縦39.8cm×横1,580.2cm
・素材:紙本墨画淡彩
・所蔵:山口県「毛利博物館」
・描いた時の雪舟の年齢:66歳くらい

雪舟・国宝ー②山水図(破墨山水図)

『破墨山水図』(東京国立博物館)
・制作年:1495年(明応4年)
・サイズ:縦147.9cm×横32.7cm
・素材:紙本墨画
・所蔵:東京都「東京国立博物館」
・描いた時の雪舟の年齢:76歳くらい
・賛者:雪舟自序じじょ月翁周鏡げつおうしゅうきょう蘭坡景茝らんぱけいし天隠龍沢てんいんりゅうたく
正宗龍統しょうじゅうりゅうとう了庵桂悟りょうあんけいご景徐周麟けいじょしゅうりん

雪舟・国宝ー③慧可断臂図

『慧可断臂図』(斉年寺)

・制作年:1496年(明応5年)
・サイズ:縦183.8cm×横112.8cm
・素材:紙本墨画淡彩
・所蔵:愛知県「斎年寺さいねんじ
・描いた時の雪舟の年齢:77歳

雪舟・国宝ー④天橋立図

『天橋立図』(京都国立博物館)

・制作年:1501〜1506年くらい(明応10年/文亀元年〜永正3年)
・サイズ:縦90.2cm×横169.5cm
・素材:紙本墨画淡彩
・所蔵:京都府「京都国立博物館」
・描いた時の雪舟の年齢:81〜86歳くらい

雪舟・国宝ー⑤秋冬山水図

『秋冬山水図』のうち秋景 東京国立博物館
『秋冬山水図』のうち冬景 (東京国立博物館)

・制作年:?年
・サイズ:縦64.3cm×横29.3cm
・素材:紙本墨画
・所蔵:東京都「東京国立博物館」
・描いた時の雪舟の年齢:?歳

雪舟・国宝ー⑥山水図

『山水図』若松周省、了庵桂悟賛(個人蔵)

・制作年:?年
・サイズ:縦118.0cm×横35.5cm
・素材:紙本墨画淡彩
・所蔵:個人蔵
・描いた時の雪舟の年齢:?歳
・賛者:若松周省・了庵桂悟ぼくしょうしゅうしょう・りょうあんけいご

まとめ

雪舟に関しては、水墨画のスター画家のように持ち上げすぎでは?と言う意見も、目にすることがあります。

いつの世も、どんなジャンルにおいても有名になればなるほど賛否分かれて、論争が繰り広げられます。

そんななか、こんなエピソードを見つけたので紹介します。

雪舟は、
酒を飲み
窓に向かって尺八を吹き
歌を歌ったのちに
筆を取り一気に絵を描いた

これも、涙で描いたネズミの絵のように、誰かが作ったファンタジーなのかもしれません。

でも、私はこのエピソードがとても気に入っていて、「画聖」と称されるよりもこちらの方が本来の雪舟らしさを表しているのかも、と思っています。

雪舟の自画像(模本)もあります。

重要文化財ー模本:「雪舟自画像」

(模写者不明)『雪舟自画像 模本』(藤田美術館)

・制作年:?年
・サイズ:縦59.3.cm×横28.4cm
・素材:絹本着色
・所蔵:大阪府「藤田美術館」
・描いた時の雪舟の年齢:?歳(模本)
・賛者:青霞(中国の文人と推測される)

雪舟の生涯をたどると、水墨画はただの技法ではなく、長い時間をかけて深めていく表現なのだと感じます。

中国で学んだこと、日本で育てたこと、旅の中で見た風景。

そうした経験すべてが、雪舟の作品の線や余白、墨の濃淡の中に込められているのかもしれない、と思いました。

水墨画は、ただ単純な白黒の絵ではありません

墨の濃淡、かすれやにじみ、余白。

その組み合わせによって、山や水、空気、時間の流れまで感じさせることができます。

いきなり、雪舟のような大作を描く必要は全くありません。

まずは筆や墨にふれて、小さな線や濃淡を試してみるところから、少しずつ水墨画の世界が広がり、やがて雪舟が描こうとした心の風景に近づくことができるかもしれません。

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