伊藤若冲といえば、日本人画家としてとても有名な人物ですよね。
華やかで鮮やかな動物の絵が頭に浮かぶ人も多いのでは。
「奇才」と呼ばれ、さまざまな絵を描いた伊藤若冲は、一体どんな人物だったか気になりますよね。
実は伊藤若冲、派手な絵ばかりではなく水墨画も描いていたのですよ!
伊藤若冲は、私が個人的にすごく共感できるところがある上に、「画家としてとても理想的な生き方をした人」だなあと思う人です、
なぜ理想的なんだろ?
それはお話を紹介していく中で、だんだんわかっていくと思いますよ。
今回はそんな伊藤若冲について解説していきます。
・伊藤若冲について知りたい
・伊藤若冲の作品が知りたい
そう思うあなたにおすすめの内容です。
色々なエピソードがありますよ、どうぞお楽しみに!
伊藤若冲について簡単な略歴
・名前:伊藤若冲(本名:伊藤源左衛門)
・生年月日:1716年3月1日
・死亡日:1800年10月27日(84歳没)
・出身地:京都府京都市
・活躍した場所:京都
・生きた年代:江戸時代中期
・作風:花鳥画(彩色画・水墨画・木版画など)
・性格:人付き合いが苦手・動物好き
・家庭:生涯独身
・代表作:「動植綵絵」30幅、「群鶏図障壁画」他
伊藤若冲・簡単年表(年齢はおよそです)
1716年(0歳)伊藤若冲 生まれる
徳川吉宗が8代征夷大将軍に就任
同年 尾形光琳没。
同時代の絵師:円山応挙・曾我蕭白・池大雅・予算蕪村など。
1738年(24歳)父が亡くなり、4代目当主となる
1755年(39歳)弟に家督を譲り、隠居する
1758年(42歳)「動植綵絵」を描き始める
1765年(49歳)「動植綵絵」24幅、「釈迦三尊像」3幅を相国寺に寄進
1768年(52歳)『平安人物志』に掲載される
*平安人物志・・江戸時代に京都で出版された文化人の人名録
他には、円山応挙、池大雅
1770年(54歳)「動植綵絵」30幅の寄進完了
1788年(72歳)京都に天明の大火・若冲の家と、相国寺焼失
1791年(75歳)石峰寺門前に移住
1800年(85歳)没 石峰寺に埋葬 戒名は「米斗翁若冲居士」
伊藤若冲の「生い立ち〜青年時代」
1726年、江戸時代中期。
この時代は、8代将軍徳川吉宗が、享保の改革で幕府財政の立て直しに成功しました。
江戸や京都では富裕層である町衆が、文化を華やかに盛り立てようとしていたころです。
伊藤若冲は京都の錦市場にある青物問屋「枡屋」の長男として生まれました。
さて彼はどんな人物だったのでしょうか?
京都の青物問屋のボン
江戸時代、野菜は青物と呼ばれていて、野菜の流通システムがしっかりとしていました。
その流通システムを仕切る青物問屋はかなり儲かる商売だったようです。
若冲の実家「枡屋」は、広い土地も所有していて、京都の一等地である錦小路にお店を構えていたので、これは普通の町人とはいえず、町衆と呼ばれる富裕層、ブルジョア階級だったといえますね。
なぜ初めに、このような若冲の実家の説明をしたかというと、つまり若冲が「お金には困っていない裕福な環境にいた」という重要なポイントを紹介したかったからなのです。
何もできない若冲
24歳の時に父を亡くし、家4代目当主として家業を継ぐ運命になった若冲。
ところが、若冲は儲かっている実家の商売には、全く興味がなかったのです。
そもそも若冲は、学問が嫌い・字が下手くそ・酒も飲まない・趣味もない・・・という人物。
生涯独身だったのは女性にも興味がなかったからでは、と言われています。
町衆である立場というのは、仕事が終わってから夜に祇園などへくり出し、お金を使って京都の経済を回すのが役目でもあります。
しかし、お金持ちの旦那衆なら、たしなみとして身につけておくべき芸ごとのひとつもない若冲にとっては、そのような社交の場は苦手だったでしょうね。
模写1,000枚!
若冲がいつごろから絵を描き始めたのかはわかりません。
もしかしたら、家業のストレスから逃げ出すためのきっかけだったのかもしれませんね。
若冲は初め狩野派に習いますが、基礎だけ学ぶとすぐやめてしまいます。
そして中国画の模写を始めました。
京都のブルジョワという立場と経済力を生かせば、本場の絵はたくさん集められたのでしょう。
実に1,000枚の絵を模写したと言われています。
絵の上達はとにかくまず手を動かすことが基本。
独学の絵師と言われる若冲ですが、この集中的な模写時代によってかなり絵の技術を磨いたことは想像できますね。
ひたすら観察&写生
模写を続けていた若冲ですが、描かれたものを写すだけではダメだ、実際に実物を見て描かねば、と思い至り、次に「写生」に移ります。
実家にも錦市場にも、野菜そのほか格好の絵のモデルがあります。
庭に鶏を飼って、ひたすら観察し写生することでさらに技術を磨いていきました。
このひたすら生き物を写生する時期というのは、若冲にとってとても重要な時間だったと思います。
若冲の「神気」という言葉があります。
ある生き物をじっと見て見尽くすと、その生き物が持つ「神気」が見えてくる。
そうなると、その生き物はどのようにでも描ける。
そしてたとえば鶏に「神気」が見えるようになったなら、他の動物や自然の植物にもすべてそれが見えるようになる。ー
これは、若冲が大典(のちに登場します)というお坊さんに語ったとされる言葉です。
当時、幅をきかせていた狩野派中国絵画の考えでいうと、絵画のテーマとしてランク分けがされていました。
山水画(1番上)
↓
人物画
↓
花鳥画(1番下)
というものです。
若冲は狩野派の派閥とは関係なかったので、自由にモチーフを選べる立場ではありましたが、「神気」を考えた時に、山水や人物ではなかった、ということなのでしょう。
私は、彼がシンプルに生き物が大好きだったからだと思っていますけど!
絵は熱中しないと描けません。
興味がないものにあれだけの情熱は注げませんからね!
伊藤若冲の「壮年時代〜晩年」
この時期の重大な出来事は、大典顕常(後に紹介)という、若冲より3歳年上の禅僧との出会いです。
彼と知り合ったことで無学の若冲は色んな知識を得たり、相国寺に縁ができて、のちに大作を寄進することになるのです。
家業を譲り、動植綵絵を描く!
・制作年:1757〜1766年頃
・サイズ:各平均縦142cm×横79cm(絵によって少し違いがあり)
・素材:絹本着色 30幅
・所蔵:宮内庁三の丸尚蔵館(国宝)
・描いた時の若冲の年齢:40歳〜49歳くらい
40歳になったころに、弟に家督を譲り、隠居します。
交流のある大典禅師が住職となっていた相国寺へ移り住み、若冲が心待ちにしていた絵だけを描く生活が始まるのです。
そして若冲の代表作となる「動植綵絵」の制作に取りかかります。
40歳の若冲。
絵の技術は磨かれ、家業からも解放され、お金にも困っておらず。
良い画材を使って、好きな絵を好きなように描こう!ということで生まれたのが、「動植綵絵」です。
最高の出来じゃないわけがないじゃないですか!
この作品は、とんでもなく細かいリアルな絵です。
しかも細密であるだけでなく色もとてもきれいで、いたるところに若冲らしいセンスやこだわりが光っていて、見ていて飽きません。
タコの長い足に、子どものタコがくっついてますね。
さかなクンのように知識がない私にとっては、魚ってなんとなくどれも同じように見えがちですが、真ん中にドーンときているタコがアクセントになって、どことなくユーモラス。
一見地味で不気味になりがちな虫たちの絵ですが・・・
これぞ若冲の得意分野と言えましょう。
濃いミドリと薄いミドリの中に、白と黒が絶妙にピリッと効いています。
配色がすごくきれいなのでサワヤカですよね!
近くでじっくり観てみたいです!!
若冲といえば菊の絵も多いですね。
多色使いの菊の花も、白がメインなので重さがないですよね。
ツタみたいに大胆に配置されている菊の葉と、背景の川との交差が素敵!
これでもかっていう南天の実とドヤ顔の鶏のトサカの朱がリンクしていて、ボディ全体は黒でビシと締めていてカッコいい!
赤と黒って強烈だけど、鶏の後ろに白い菊を散らし、左上の鳥と鶏の目にオレンジの抜け感があって、若冲っぽいメリハリが感じられます。
若冲の十八番、鶏。
それにしても、なぜニワトリだったんだろう・・と考えたことがあります。
おそらく理由のひとつとしては、飛べない鳥・しかも大きい=観察しやすいというのがあったのかな?と想像しました。
それに、鶏って「顔が小さくて首と足が長く、トサカやシッポがゴージャス」じゃないですか。
鳥の中でもビジュアルが派手でかっこいいんですよね。
しかも鶏は縁起の良いトリとされています。
つまり、鶏=絵になる鳥!
もちろん、若冲の画力とセンスで、より格が上がるのは言うまでもありません。
他のこと何もしないでO K〜絵だけ描いてたらいいよ、と言われても、ものすごく時間がかかったと思います。
しかもこの細かい絵は掛け軸で、
シリーズ全部で30幅(掛け軸の単位)もあるのです!
10年近くかかった大作です!
・・・大変だっただろうなあ!
でも楽しかっただろうなあ!
この若冲のライフワークとも言える「動植綵絵」全シリーズ30幅は全て相国寺に寄進されました。(のちに持ち主が変わります)
若冲、50歳のころです。
画集欲しいなあ・・・
若冲、水墨画を描く
50代〜60代のころの若冲。
絵だけ描いてると思われていた隠居後ですが、錦市場の町年寄という役職を請け負い、市場のトラブルに根気よく対処、解決に至るまで頑張ったという話が、市場の記録に残されているそうです。
人付き合いの苦手だった若冲、しかもめちゃめちゃ大変そうな案件だというのに、意外ですね。
還暦を迎えた頃から、石峰寺に「五百羅漢」を設置するための資金作りとして、墨絵を描くようになります。
これまでに比べると作品数は減りましたが、すごくオシャレなデザインの版画や、ユニークな水墨画を作っています。
注目すべきは、ド派手な彩色画に比べて水墨画がスッキリシンプルなこと。
若冲の水墨画ー「象と鯨図屏風」
・制作年:1795年
・サイズ:159.4x354cm
・素材:紙本墨画
・所蔵:MIHO MUSEUM
・描いた時の若冲の年齢:80歳くらい
80歳の水墨画作品。
また童心にかえったようなおおらかでユニークな作品です。
鯨は魚の一種と思われていたらしく、背びれがありますね!
象は、若冲が子供の頃、長崎から江戸へやって来て、一般大衆も見る機会があったようなので、若冲も本物を見ていたのかもしれません。
ほんわかしたムードがなんともいえないのですが、墨の濃淡を忘れず線も細やかで、年齢の衰えを感じないところがすごいです。
若冲の水墨画ー「虎図」
・サイズ:112x56.5cm
・素材:紙本墨画 1幅
・所蔵:石峰寺
・描いた時の若冲の年齢:?
蘆雪の虎が1番なら、若冲のこの虎は2番目に好きかもしれません。
ぽってりした眉毛と、チョイと画面の端から見えている足がとても可愛いです。
この虎にもどことなく猫っぽさが出ていますね!
何も足す必要がなく、何も引くものがない。
シンプルな水墨画で最高です。
「蘆雪の虎」はこちらから↓
伊藤若冲の水墨画ー「鯉図」
鯉の絵も、吉祥絵のひとつとしてよく描かれます。
こんなふうに滝を登っている威勢の良い鯉が好まれますね。
この鯉には、うろこの部分に筋目描きが見られます。
伊藤若冲の水墨画ー「寒山拾得」
数少ない若冲の人物画。
左が経典を持っているので寒山さん。
右がほうきを持っているので拾得さん。
私も描いたことがあります。
この寒山拾得は、おおらかなタッチですね。
顔のあるものを描くと本人に似るので、若冲もこんな感じで笑っていたのかも。
伊藤若冲の水墨画ー「群鶏図」
・制作年:?
・サイズ:各126.37×49.53cm
・素材:紙本墨画 六曲一双
・所蔵:ミネアポリス美術館
・描いた時の若冲の年齢:?
若冲の鶏は、色がつけばとても鮮やか。
これが墨だけになると、筋目描きや濃淡のテクニックによって色に負けない華やかさが生まれるところがミソ。
よく見るとヒヨコもいるんですよ!
サボテン・竹・松・バナナ・ヤナギの木なども鶏と一緒にそれぞれ、違うタッチで描かれています。
火事ですべて消失!だけど・・・
1788年に、大事件が起こります。
天明の大火です。
若冲の実家もこの火事で焼失したのですが、近所の火が移って巻き込まれたというレベルではなく、この火事は、1月30日から2月3日までという長い時間をかけて、京都を焼き尽くしました。
京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰した。
-wikipedia
被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。
この大火により、若冲の住む京の中心街はもちろん相国寺も焼け落ちてしまいます。
でも!奇跡的に動植綵絵は助かったのです!
本当によかった。
ただ、住むところがなくなった若冲は、知人である大坂の蒹葭堂を訪ね、そののち大阪豊中市にある西福寺にしばらく滞在します。
その時に描いたのがこちら。
・制作年:1789年
・サイズ:177.2x92.2cm
・素材:紙本金地着色
・所蔵:西福寺
・描いた時の若冲の年齢:73歳くらい
鶏はもちろん、豪華な金地にサボテンが不思議とマッチしていてかっこいいですね!
その後、京都の石峰寺の門前へと移り住み、最期はそこで生涯を終えることになります。
これまでお金の心配などしたことがなかった若冲ですが、火事で全てを失ってからは、初めて絵を売って生活してゆくことに。
若冲、72歳ごろのことでした。
若冲のここがスゴイ!絵画テクニックとは?
一般的に、多くの画家は自分の得意とする技法やテーマがあります。
伊藤若冲といえば、鮮やかな色彩の超細かい花鳥画を得意とし、生き物や植物の絵を描き続けました。
それだけなら、「派手な彩色の花鳥画が見事な画家」の1人であったかもしれません。
ですが、若冲のすごさは、ただ絵が細密で上手い・カラフルでゴージャスというだけではありません。
本当の凄さはジャンルを超えた、技のバリエーションの多さ。
若冲の作品の大きな特徴
若冲は彩色画の他に、水墨画、木版画などにもトライし、それぞれのジャンルの特性にうまく自分の個性やワザを融合させて、作品をつくっています。
絢爛豪華な彩色画で人々をあっと言わせ、ユーモアのあふれる水墨画ではフッと和ませる。
木版画も自分自身で取り組み、デザイナーとしてのセンスの良さも見せつけました。
アイデアと探究心が並外れてるんですね。
でも、バラエティに富んださまざまな手法で描いた割には、バラバラなイメージはありません。
全体を通しての印象はどれも
『めちゃめちゃ若冲っぽい』
という独特のオリジナリティを持つのが特徴なのです。
・制作年:1799年
・サイズ:142.7x84.2cm
・素材:絹本着色
・所蔵:個人
・描いた時の若冲の年齢:83歳くらい
犬は全部で59匹。
ころころの子犬同士はじゃれあって、くっつき合ってグチャーとなるものですが、その可愛い感じが表現されています!
84歳で亡くなったとされている若冲。
この絵が描かれたのは、まさにその前年です!!
違うジャンルで違う手法の絵にチャレンジした結果、全く画風が変わった!または、あえて変えていくという画家が多い中、若冲の作品には一貫性を感じます。
こんな画家は他に知りません。
ひとつブレない理由としては、
「花鳥画」
にテーマをしぼったところかもしれないなと思いました。
「神気」・・・動植物の世界から外れることはなかったのですね。
「神気」とは自然に対する、若冲の「愛情」と言えるのかも。
筋目描き
筋目描きといえば、若冲。
若冲といえば、筋目描き。
タネと仕掛けはちゃんと存在し、それを知ればなるほどと思えるテクニックです。
前提として、水をよく吸うにじみやすい和紙(画仙紙)が必要です。
下の画像は私が作った筋目描きなのですが、丸の中にもうひとつ丸があるように見えますね。
最初に、中の小さい方の丸を描きます。
そして、その丸の上からもう少し大きな丸を描きます。
すると、初めに描いた丸のまわりににじみ出した水のところが白くなって、筋目のように残ります。
これが筋目描きです。
なぜこんな形になるかというと、これが画仙紙の特徴で、墨と墨を重ねた境界線の部分は、水が墨をはじくのでその部分が白く残るのですね。
これは技法というほどでもなく、単純に紙の性質といえます。
ですが、「あ、水はじいて白くなるやん」というきっかけで、あんな細密な絵画のアイデアに結びつけて実際に作品にしてしまうのが、若冲らしいところですね。
ちなみに、紙ならなんでも良いわけではなく、画仙紙がベストです。
安い薄っぺらな書道半紙のような紙でもできますよ!
ただ、メカニズムは理解していても、思い通りの細さや形に白く残すには、
・紙の種類
・水加減
・運筆のスピード
・墨の濃さ
と、なかなかコツと条件が必要なので、若冲もかなり練習したのでは?と想像しますね!
マス目描き
・制作年:1790年頃
・サイズ:右隻133.0×357.0cm 左隻137.5×364.0cm
・素材:絹本着色 六曲一双
・所蔵:静岡県立美術館
・描いた時の若冲の年齢:74歳くらい
1cm四方の方眼を作ってその中に彩色していく方法。
そのマス目の中にはもうひとつ小さな四角があって、細かな色分けをすることによって、全体の絵を形作っています。
モザイク画とも言われます。
マス目描きの作品は全て若冲が描いたのではなくて、工房のようなところで弟子たちが仕上げたのではという説もあります。
若冲は西陣織の正絵(原画を方眼紙に描いた下絵)にヒントを得て、このマス目描きを思いついたのではないかと言われています。
版画
若冲は拓版画集も出しているんですね。
・制作年:1771年
・サイズ:25.2x36.7cm
・素材:木版着色 全6枚
・描いた時の若冲の年齢:55歳くらい
版画でも美しいこだわりを感じます。
版画になると、ワンクッション置くためか、ド派手さが抑えられてマイルドな優しさに変わってまた素敵です。
・制作年:1767年
・サイズ:28.7x1,151.8cm
・素材:紙本拓版 1巻
・描いた時の若冲の年齢:51歳くらい
大典顕常と若冲は、京都の伏見から大阪の天満橋へ、淀川を下って船旅をしました。
季節は春で、6時間ほどかけて夕方に大坂へ着いたようです。
優雅な船旅ですね。
若冲がスケッチし、大典が風景を詩にして、合作で画巻として制作されたようです。
色情報が消えると、グッと墨色の上品な濃淡が生かされてきますね。
めっちゃオシャレ!
・制作年:1768年
・サイズ:28.1x17.6cm
・素材:紙本木版 1冊
・所蔵:個人
・描いた時の若冲の年齢:52歳くらい
ちなみに左は、鶏頭という鶏の頭そのまんまの名前が付けられた花ですが、やはり若冲、ここにも鶏の存在を感じるな・・・とちょっと楽しくなりました。
伊藤若冲をめぐる人びと
どんなにスゴイ絵を描いたとしても、それを評価する人がいない限り、なかなかアーティストが世に出ることはありません。
若冲もそうです。
おまけに無学で、趣味もなく、人付き合いが悪い・・恵まれていたのは財力だけれど、性格的に自分を売り出そう!なんて気はさらさらなく・・・
そんな才能あるオタクの若冲に光るものを見つけた人々がいました。
彼らのおかげで、若冲の素晴らしい作品を多くの人に見てもらえる機会ができたのでした。
才能ある人は素晴らしい。
その才能を見出し、引き出す人はもっと素晴らしい!
大典顕常
「大典顕常」近世名家肖像より
大典顕常(1719-1801)
伊藤若冲と同年代(3歳年上)の禅僧・漢詩人。
相国寺の住持(住職)もつとめたとてもエライ人。
大典禅師は、多くの文人・芸術家と交流したくさんの本を書きました。
若冲との出会いは相国寺。
若冲は絵に生かすため禅の修行をしていたと思われます。
若冲は知識人で高僧でもあった大典から多くを学び、大典も若冲の才能を見出し、支援し続けました。
彼の人生に大きな影響を与えた人です。
大典といえば、若冲。
若冲が相国寺や鹿苑寺に絵を寄進したのも、大典の口利きがあったと思われます。
また、大典から売茶翁(のちに登場します)を紹介され、彼の生き方に憧れを持つようになった若冲は、仏教に帰依するようになります。
売茶翁
「売茶翁」伊藤若冲
「売茶翁」(1675-1763)
黄檗宗(日本の三禅宗の一派)の僧。
晩年、京都で簡素な喫茶のお店を開き、客に煎茶を出しながら、いろんな話を説き、自身は貧しい生活を続けて精神の修行を続けました。
若冲とは、大典から紹介されて交流を持つようになりました。
世捨て人のような売茶翁は、若冲の憧れの人だったとか。
花鳥図を描きづつけた若冲が、珍しく人物画を描いたのが、売茶翁です。
火事の後、若冲はいよいよ絵を売って生活することになります。
「斗米庵」という雅号を持ちました。
これは、絵1枚の対価として、「米1斗」と決めたことからなのですね。
でも、最高の画材を使っていたので、これっぽっちの対価では生活もままならないはず・・・
実は、憧れの売茶翁が1杯のお茶を売りながら暮らしているライフスタイルを真似たのでは??と言われています。
※米1斗・・・15キロ(大赤字です!)
木村蒹葭堂
「木村蒹葭堂」谷文晁
木村蒹葭堂(1736-1802)
江戸時代中期の博物学者であり文人。
大坂生まれ。生家は酒造業を営み裕福でした。
幼い頃から植物に親しみ、詩や絵画・篆刻を学び、本も書きました。
煎茶も詳しく売茶翁の遺品を伝えました。
蒹葭堂は知識人の上、コレクターでもあったので、当時の文化人や芸術家など交友関係も非常に幅広く、その中に若冲もいたのです。
実家が火事で消失した時も、若冲は一時大阪へ蒹葭堂を訪ねています。
江戸時代あたりには、このような裕福な文化人・知識人(いまいち何をしている人なのかはわからない・・・)が、芸術家たちと交流したり支援したりして、大活躍していますね。
こんな人たちがいたおかげで、文化が守られ、発展していったのだろうなあとしみじみ思います。
ジョー・プライス氏
ジョー・D・プライス氏(1929-2023)
アメリカ合衆国生まれ。
江戸時代の日本絵画を対象にする美術コレクター。
2006年の東京国立博物館で開催された「プライスコレクション・若冲と江戸絵画」で広くその名を知られることになりました。
1953年に若冲の「葡萄図」と出会った時に、どうしても欲しくなり、スポーツカーを買う予定だった資金を使って購入したといいます。
それをきっかけに、若冲をはじめとする当時あまり知られていなかった江戸時代の絵画の収集が始まります。
若冲の作品は50点ほど集めたそうです。
これがその葡萄図。
それにしても1953年といえば、そう古い昔ではありませんよね。
若冲の人気は、かなり最近になってからのものなのだと実感します。
伊藤若冲にまつわるエピソード
250年も前の絵がキレイに残ってる理由は?
ブルジョワ階級でお金には困らない人生を送っていた若冲。
(火事で家が消失するまでは)
画材もうんと良いものを惜しげもなく使っていたはずです。
大切に保管されていた上に、絵具や描かれた絹本も特注の最高品。
さらに、「裏彩色」と言って画絹の裏から顔料を塗り、色彩効果を出す技法も使われていることがわかったそうです。
30幅全ての作品に裏彩色が用いられていたわけではないそうですが、本当に時間とお金と技術を使って贅沢につくられた作品ということが、わかりますね。
絵に描かれた珍しい動植物たち
花鳥図を得意とし、実際に見たものしか描かないと宣言していた若冲。
(虎に関しては、虎は日本にいないから中国の絵を見て描く、と言っていたそうですね)
鶏や雀など身近な生き物だけでなく、オウム・インコ・孔雀・ヒマワリ・モンシロチョウ・秋海棠などの外国からやってきた外来種の動植物を描いています。
鎖国政策下の江戸時代では、外来種はとてもレアなものだったのですが、おそらく若冲は交流のあった大坂の蒹葭堂とのつながりで、珍しいものを見るチャンスがあったようですね。
若冲の名前の由来
「若冲」という名前は、中国の古典『老子』第45章の
「大成若缺。其用不弊。大盈若冲。其用不窮。大直若屈。大巧若拙……。」
大成は欠けたるが若く、其の用弊れず。
大盈は冲しきが若く、其の用窮まらず。
大直は屈するが若く、大巧は拙なるが若し。
の一部から取られました。
本当に完成しているものは、どこか欠けているように見えるが、いくら使ってもくたびれがこない。
本当に満ち充実しているものは、一見、からっぽに見えるが、いくら使っても無限の効用をもつ。
真の意味で真っすぐなものは、かえって曲がりくねって見え、本当の上手はかえって下手くそに見える。
という意味だそうです。
無学だった若冲に大典が分かりやすく解説したものでしょうか。
この言葉が、絵を描くことのみに生きた不器用な若冲の心に、とても響いたのでしょうね。
・・・奥深くてグッとくる・・・・
(私にも響いた)
【引用↓ありがとうございます】
千載具眼の徒を竢つ
若冲は、「千載具眼の徒を竢つ」
=自分の価値がわかる人が現れるまで千年待とう
という言葉を残したと言われています。
自信たっぷりに思えるこの言葉、若冲の素朴な人柄から想像すると、本当は違う意味も込められているのかも?とも考えます。
私には若冲が、「俺はすごい絵師だぜ!」というアピールをしているのじゃなく、ただ生き物・自然を愛し、絵を描くことに熱中し、また信心深い純粋な人であったように思えるからです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は伊藤若冲について作品と色々なエピソードを紹介しました。
彼は幸運にも裕福な家に生まれたことで、画家であるけれど、生活のために絵を売る必要がなかったのですよね。
(晩年を除き)
・経済力(最高の画材を使うことができた)
・時間(働かなくてよかった)
・労力(好きなことに打ち込めた)
結果、好きな絵を好きなように描き続けた人生。
加えて、優れたセンスを生かし、さらに磨いて、唯一無二と言えるような素晴らしい作品を作りました。
こんな画家が他にいるでしょうか?
私が冒頭に「画家としてとても理想的な生き方をした人」と話した理由、わかっていただけたかな?と思います。
それでは、また。
こんにちは。
墨絵師のべべ・ロッカです。