日本で「水墨画」は
いつごろ誕生したのでしょう?
水墨画のことをなんとなく知っていても
その歴史についてはハテナ?
となってしまいがちですよね。
今回は水墨画の歴史についての紹介です。
水墨画が時代の流れとともに
どんなふうに生まれて変化していったのか
水墨画の作品を紹介しながら
簡単に解説していきたいと思います。
目次
水墨画の始まりは中国
水墨画は、墨で描かれる絵です。
水墨画の特徴は、
・水と墨を使って描く
・かすれやにじみを作る
・線描きと面描きで表現する
・墨の濃淡で明暗を作る
などなど。
水墨画の発祥の地は中国でした。
墨の絵の始まり
中国の漢の時代(紀元前206-220)に、
墨を使って絵が描かれたという
記録が残っています。
もちろん、この頃の絵はまだ水墨画と
いう名前では呼ばれていません。
絵を描く道具として墨が使われた
ということにすぎなかったのです。
唐の時代になると、墨の濃淡を使った
表現も見られるようになりました。
水墨画は「山水画」の技法として
成り立っていきます。
「水墨画」の誕生
「水墨画」という名前で呼ばれ始めたのは
いつなのか?
厳密には、発祥は定かではないのです。
ただ、
中国の唐代後半(618-907)に、
荊浩という画家が著作『筆法記』の
中で使った「水暈墨章」という言葉が
「水墨画」の語源ではないか?と
一般的には、考えられています。
「水で暈どり、墨で章どった画」
という意味です。
暈どる=暈す
章どる=形にする=描く
↓
「水でぼかした墨で描いた絵」
つまり、
水墨画ということになりますね!
日本に墨が伝わる
奈良時代(710-794)には、
中国から日本に墨が伝わります。
遣唐使制度で、中国へ留学生が訪れ
さまざまな文化を学んで日本へ持ち帰ります。
この頃の中国は、文化の先進国で
日本人にとって憧れの国だったのですね。
しかし、あくまでも「墨絵」
(墨を使って描いた絵)であって、
まだ「水墨画」と呼べるスタイルには
なっていませんでした。
仏教・仏画が広まる
奈良時代には、中国から「仏教」も
日本に伝わってきました。
日本で仏教を普及させるため
「仏画」が描かれるようになります。
「仏画」は、その名の通り
仏教に登場するいろんな仏さまを描いた絵
です。
ちなみに「仏画」は
1つの絵画のジャンルとして、
現在でも描かれ続けています。
(水墨画とは別のジャンルとして
扱われています)
宗教と絵画との関係
現在では、絵画=「芸術・アート」
であると認識されていますが
大昔、絵は文字の代わりになる
便利なツールでした。
絵は万国共通、字を読めない人にも
わかりやすくメッセージを伝えることが
できるからですね。
古くから、西洋や東洋で
人類と宗教の関わりの中でも、
世の中に広く教えを広めるために
「絵」が使われて来ました。
仏教を布教させるために
「仏さまってこんな感じなんですよ」
と絵で伝えた「仏画」もそうです。
のちに伝わる禅宗(仏教の1つ)でも
絵が役に立ちました。
また、昔はお坊さんが絵も描いたので
それもまた便利というか重要な役割を
果たしていたようです!
水墨画が日本で人気
鎌倉時代には、
いよいよ水墨画が日本にやってきます。
武士の時代でもあったこの頃は
質実剛健な武士の精神と、
墨で表現されるシンプルな世界観がマッチして
水墨画は人気を集めます。
禅と水墨画
仏教の「禅宗」が中国で生まれ、
禅僧が日本にやって来くるように
なります。
日本からも中国へ留学する僧が増え
中国の絵画をはじめとする文化を
日本へ持ち帰りました。
南北朝時代には、
禅宗の寺院だけではなくて
大名たちの間で、唐物(中国で作られた
絵画や工芸品)がブームとなりました。
寺院に工房ができて、水墨画が
どんどん描かれるようになってゆきます。
ここ最近、海外でも
「瞑想」や「マインドフルネス」が
広がっていますが、
その祖先はひたすら座禅を組むことが
修行であった「禅」なのかもしれません。
心を落ち着かせ邪念を取り払い
集中する・・・・
同じ時期に日本にやってきた
禅と水墨画がとても良いコンビであるのは
納得できますね。
室町時代に広がった水墨画
禅僧の修行の中には、文化的な学びも
含まれていました。
当時、絵を描く画僧も多く、
京都の相国寺で修行をしていた
雪舟もその1人です。
中国の模倣から始まった水墨画は
またたく間に日本で広がっていきます。
【室町時代に活躍した画僧たち】
・明兆(1352-1431)
東福寺の禅僧。宋ー元時代の画風を得意とした。
・如拙(生没年不明)
相国寺の禅僧。将軍お抱え絵師。周文の師匠。
・周文(生没年不明)
相国寺の禅僧。
将軍お抱え絵師として活躍したエリート。
雪舟の師匠。
水墨画の全盛期
室町時代・・・だけではなく今もなお
語り継がれる、水墨画の代名詞とも言える
画家が雪舟です。
雪舟がどんな人だったか?何をしたか?をまとめた記事はコチラ↓
水墨画の歴史を変えた雪舟
禅僧としても絵師としても
明兆・如拙・周文たちの後輩である雪舟。
もともと画才のあった雪舟は
中国へ渡って本場の技法を学び、
帰国後にさらに絵をきわめて
独自の水墨画雪舟流を完成させました。
それまでの日本の画壇では
先輩たちの活躍があったものの
中国の模倣にとどまっていたため
大きなインパクトがなかったのです。
雪舟は、日本の後輩絵師たちにも大きな
影響を与えました。
彼の死後に、
画壇のトップにいた狩野派や多くの画家たちが
雪舟をあらためて取り上げ賞賛したことで
再ブレイクすることになります。
初代狩野派の登場
さて、エリート画僧として活躍していた
周文の後継者は、
小栗宗湛 → 狩野正信
と続きます。
ここで、登場したのがスーパー絵師集団
「狩野派」の初代、正信です。
もともと周文が幕府のお抱え絵師だった
こともあり、そのまま受け継がれて
狩野正信は、8代将軍足利義政の
お抱え絵師となりました。
安土桃山時代〜江戸時代にかけて、400年もの長い間、日本の画壇でトップを走り続けた、狩野一族を中心とした絵師集団。
狩野派に引き継がれてゆく水墨画
狩野派が、ずっと絵画のジャンルで
トップの座を譲らなかったのは、
2代目の元信によって確立された
絵画制作の完全マニュアル化のおかげと
いえます。
人気が出て大量の絵の受注がくるように
なってからも、このマニュアルのおかげで
チームが一丸となって次々と
制作をこなすことが出来たのです。
狩野派=狩野永徳
狩野派の中で最も有名なのは
狩野永徳ではないかと思います。
ズバリ、キンキラキンなイメージ。
この様式は「濃絵」といって、
障壁画に多いスタイルで
金箔や銀箔の上に青や緑の濃い原色を
使った絵のことを言います。
水墨画とはほど遠いような気もしますね。
戦国の世の安土桃山時代。
権力のある武士たちの
依頼に応えて、多くの障壁画を手掛けました。
残念ながら、戦火でほとんどが消失
しまったのですが・・・。
和と漢の融合
ド派手なイメージが先行しますが、
実は狩野派の画風のベースには
水墨画の要素も含まれていました。
永徳は、豪華絢爛な障壁画だけでなく
水墨画でも大作を残しています。
水墨画でも大胆で豪快な構図は、
さすが永徳、スケールが大きいです!
狩野流絵画は、
やまと絵と中国の漢画をミックスさせた画風を
得意としました。
雪舟を崇拝していたと言われる狩野派。
水墨画のテイストと鮮やかな色使いを融合させ
独自の絵画を作り上げたのですね。
水墨画の最高傑作
狩野永徳の活躍した時代に、
狩野派と闘った絵師がいました。
長谷川等伯です。
この「松林図屏風」は
「実は下絵だったのでは?!」という
エピソードまであってそんなことも含めて
有名な作品です。
ザ・水墨画とも言えるような
墨の濃淡だけで描かれたシンプルな
作品は、この頃に辛い出来事を経験した
等伯の心情を反映している、
とも言われています。
水墨画バリエーション
戦乱の世が終わり、
徳川家の治める江戸時代には戦もなくなり
平和な世の中となりました。
経済も安定して、庶民が趣味として
文化を楽しめるようになり
さまざまな絵師が活躍します。
画壇のトップはもちろん、
徳川家についた江戸狩野を中心とした
狩野派でした。
たらしこみの宗達
江戸時代の絵画も面白いですよ!
生没年など不明なことが多い絵師、
俵屋宗達が活躍したのが、江戸時代です。
風神雷神図屏風が有名ですね。
俵屋宗達は、京都の裕福な町衆であったと
言われ、「俵屋」という屏風絵の下絵などを
制作して販売するお店を営んでいました。
本阿弥光悦というアートプロデューサーに
みそめられ、光悦が書、宗達が絵を担当して
コラボ作品を作ったのがきっかけで、
人気作家となっていきます。
墨のたらしこみがアクセントとなった
宗達の有名な犬の水墨画です。
風神雷神のように壮大でもなく
荒々しい筆使いも
派手派手しい色使いもなく
日常のほのぼのとした一コマを
シンプルに描いた作品。
宗達のセンスとアイデアによって、
墨のバリエーションが増え
新たな水墨画が誕生しました。
宗達は、
のちに誕生する琳派の祖とも言われます。
琳派の代表、尾形光琳
琳派を代表する絵師、
尾形光琳は、江戸時代の著名な画家の1人です。
京都の呉服屋の裕福な家庭に生まれました。
光琳の個性と魅力は「光琳模様」と言われた、
圧倒的なデザインセンス。
晩年には水墨画も描きました。
また弟の尾形乾山(陶芸家)の作品に
絵付けをして、兄弟の合作も残しています。
また光琳も、雪舟の絵を熱心に
模写していたそうですね。
こうして、
きらびやかな琳派の絵師たちにも
水墨画の遺伝子は引き継がれていきました。
ちなみに、「琳派」という名は、近代になってから
呼ばれるようになったもので、
当時の尾形光琳たちが「自分たちは琳派だ」
と名乗りを上げて作ったものではありません。
琳派の琳は、「光琳」から
取られているものですけどね。
本阿弥光悦
俵屋宗達
尾形光琳
酒井抱一
鈴木其一
神坂雪佳
などが琳派の絵師とされています。
江戸時代の絵師たち
1716年。
徳川吉宗が8代目征夷大将軍に
就任しました。
この年に亡くなったのが、尾形光琳。
この年に生まれたのが、伊藤若冲。
奇想画家
伊藤若冲も、色とりどりの鮮やかすぎる作品が
有名ですね。
ニワトリが好きで庭に飼って
ニワトリの絵ばかり描いたとか
植物や生き物の描写があまりに細密すぎる
ことで「奇想画家」と呼ばれたりします。
↓伊藤若冲について詳しい記事はコチラです
若冲の魅力については、派手な作品も
もちろんすごく素晴らしいのですが、
機会があれば
水墨画作品をぜひ見て頂きたい!と思います。
派手な絵を描く絵師ほど、
水墨画でガラッ!!と変わって
個性や魅力が発揮されることがあるのです。
派手なお化粧も美人で完璧だけれど
実はスッピンもきれいなんだね!
みたいなことでしょうか?
奇想画家と呼ばれる人物は他に、
曾我蕭白(1730-1781)
長沢蘆雪(1754-1799)
などがいます。
↓2人の作品はこちらで紹介しています
円山応挙集大成
「見たままを描くことをしない」
のが本来、水墨画のキモとされています。
水墨画が「精神絵画」と言われるのも
ただリアリティや精密さを求めることを
重要とするのではないから。
風景なり画題となるものをいったん
自分の中に取り込んで、
無駄を削ぎ落とし、
シンプルに引き算したものを
紙の上に表現する。
やはり「禅」と相性が良いのも
なんとなくわかりますよね。
本質がとてもよく似ているのですね。
円山応挙(1733-1795)は
写生を重視したと言われています。
風景・生き物・龍に至るまであらゆる
絵を描きました。
ただ、写生を大事に思うあまり、
リアリティだけを追求したのではありません。
やまと絵や漢画、琳派、狩野派から
当時人気で最新だった沈南蘋という
中国人画家の写生画なども参考にして
あらゆる絵を研究しました。
写生ではデッサン力が養われるし、
模写は技法が身に付きます。
そんなわけで、磨き抜かれた応挙の絵は
「完璧」と言われるまでになったのかも
しれません。
パーフェクトで非の打ち所がないところが
逆に欠点だという人もいるようです。
応挙は円山派として、多くの弟子を育てました。
長澤蘆雪もその1人です。
日本の絵画のゆくえ
さて、江戸時代の終わりとともに、
〜派という流派は消えてしまいます。
江戸幕府がなくなり、御用絵師は解雇され
パトロンの存在がいなくなってしまったからです。
明治維新と文明開花
明治維新(政治的改革)によって
文明開花(人々の生活の変化)が起こります。
欧米の文化が取り入れられ、
日本の人々の暮らしはガラッと
変化します。
洋風建築・ファッション・髪型・食べ物・・
などなど全て欧米のものが
取り入れられるようになりました。
そんな中、明治政府は「神仏分離令」を
発令しました。
昔の日本では、神社とお寺はあまり区別がないものでした。
明治維新の時に、日本古来の神道(神様は形のないもので、万物に宿るという考え)を徹底するために、神社(神様)と寺(仏様)をはっきり分けよう、ということになったのです。
その結果、さまざまな誤解や思惑もあって
一時、寺院がボコボコにやっつけられる
という事態になりました。
その時に、お寺の仏像や仏画なども
一斉に壊されたり燃やされたりという
痛ましい出来事が・・・。
明治維新の時は、現代の私たちが
想像できないほど日本中が大騒動だった
ことでしょう。
新しいものを受け入れようとする動きが
ある時は、必ず古いものが追いやられる
という状況になりがちです。
極端!
日本がごちゃごちゃになっている中、
大切な日本の文化がテキトーに扱われ
多くの大切な絵画などが外国へ
流れていってしまったのです。
もったいない!
水墨画=クラシック絵画の魅力
日本の水墨画の流れは、
嵐のような大変化の中で
どんな状態に置かれていたのか・・
墨の成分は、
油から出る煤と動物性の膠です。
紙に描くと、膠が墨を定着させ、
その上から水をはいても流れません。
墨は強く美しいものなのです。
水墨画を含め墨で描かれた絵画は
大きなくくりで「墨絵」と呼ばれます。
そして、強く美しい墨と同様、
墨絵のひとつである水墨画は
クラシックな絵画として
たくましく現代にも生きています。
万人受けするものではありませんが
レトロな道具を使い描くシンプルな絵は、
禅のように人の心をつかみ離さないのです。
まとめ
水墨画の歴史を、
細かい部分は省いて、ざっくりと
簡単に紹介しました。
さて・・・・・
これからの水墨画ってどうなっていくのでしょう?
かつての「琳派」のようになってゆけば
いいのに、というのが個人的な希望です。
「我々は「〜派」だから
こういうテーマでこういう形式で
描かなければならない」
という縛りやルールがないこと。
水墨画の様式・・・とまでも言わず
ただ墨をベースにして
自由な表現で絵を描くスタイル。
今の私がそうかもしれません。
いろんなジャンルに刺激を受けながら
進化していきたいなと思っています。
それでは、また。
こんにちは。
墨絵師のベベ・ロッカです。